假設一個人站在山的另一頭問:
你能聽見我說話嗎?
你可以回答
(O)我能聽見你說話。
但否定卻不是
(X)我不能聽見你說話。
而是
(O)我聽不見你說話。或是我聽不到你說話。
又假若妳去服飾店買衣服,試穿後想給老公看,但老公在外面抽菸,根本懶得進去。妳問了:
你站在外面可以看到我嗎?
肯定是 (O)我可以看到妳,或是我看得到妳。
但否定卻不是
(X)我不可以看到妳。
不知道為什麼,印歐語言似乎比較少這種用邏輯難以理解的語法。
而學習亞洲語言,常常會要處理這種難以解釋的文法細項,也因此往往中文、日文、韓文的文法書總是很厚,一條一條句型、用法的羅列,一大堆標註圈圈叉叉三角形的例句,看完往
往還是很難理解,為什麼這樣用叫做自然,那樣不自然。
以日文為例:
學日文的人幾乎一開始就會學到のです的用法。
大辭泉指出のです的用法有以下幾種:強調原因理由、疑問的加強語氣、對事態的感嘆。
のです
( 連語 )
〔準体助詞「の」に丁寧の助動詞「です」の付いたもの。話し言葉では「んです」となることも多い〕
「のだ(連語)」の丁寧な言い方。
①
原因・理由・根拠などの説明を強く述べる。 「雪が降っているせいか,いつもより参会者は少ない-・です」 「会の運営がうまくいかないのは会員全体の責任な-・です」
②
(「のですか」の形で)詰問的に強い質問を言い表す。 「この責任はどのようにとってくれる-・ですか」 「前から頼んでおいてあるのに,いつ直しに来てくれるんですか」
③
(「のでした」の形で)事態の説明をやや詠嘆的に言い表す。 「度重なる不幸にもめげず,あの人は着々と仕事を進めている-・でした」
我個人看完這樣的解說基本上跟沒看一樣。
坦白說,幾乎所有歐洲語言看完文法書都可以"造句",一般能學到的亞洲語言變化不多,卻常常有這種即便長篇大論解說,還是得要用"感受"才能內化的文法細項。
(O)我能聽見你說話。
但否定卻不是
(X)我不能聽見你說話。
而是
(O)我聽不見你說話。或是我聽不到你說話。
又假若妳去服飾店買衣服,試穿後想給老公看,但老公在外面抽菸,根本懶得進去。妳問了:
你站在外面可以看到我嗎?
肯定是 (O)我可以看到妳,或是我看得到妳。
但否定卻不是
(X)我不可以看到妳。
不知道為什麼,印歐語言似乎比較少這種用邏輯難以理解的語法。
而學習亞洲語言,常常會要處理這種難以解釋的文法細項,也因此往往中文、日文、韓文的文法書總是很厚,一條一條句型、用法的羅列,一大堆標註圈圈叉叉三角形的例句,看完往
往還是很難理解,為什麼這樣用叫做自然,那樣不自然。
以日文為例:
學日文的人幾乎一開始就會學到のです的用法。
大辭泉指出のです的用法有以下幾種:強調原因理由、疑問的加強語氣、對事態的感嘆。
のです
( 連語 )
〔準体助詞「の」に丁寧の助動詞「です」の付いたもの。話し言葉では「んです」となることも多い〕
「のだ(連語)」の丁寧な言い方。
①
原因・理由・根拠などの説明を強く述べる。 「雪が降っているせいか,いつもより参会者は少ない-・です」 「会の運営がうまくいかないのは会員全体の責任な-・です」
②
(「のですか」の形で)詰問的に強い質問を言い表す。 「この責任はどのようにとってくれる-・ですか」 「前から頼んでおいてあるのに,いつ直しに来てくれるんですか」
③
(「のでした」の形で)事態の説明をやや詠嘆的に言い表す。 「度重なる不幸にもめげず,あの人は着々と仕事を進めている-・でした」
我個人看完這樣的解說基本上跟沒看一樣。
坦白說,幾乎所有歐洲語言看完文法書都可以"造句",一般能學到的亞洲語言變化不多,卻常常有這種即便長篇大論解說,還是得要用"感受"才能內化的文法細項。
沒有留言:
張貼留言